毎日新聞2020年12月16日 17時00分(最終更新 12月16日 17時00分)
11月下旬に亡くなった元サッカー選手のディエゴ・マラドーナさん(当時60歳)は、世界中のサッカーファンを魅惑した。「神の子」とも呼ばれた伝説のプレーヤーについて、同年代のアルゼンチンの人々はどう見ていたのか。同国の駐日大使、アラン・ベローさん(63)に思いを聞いた。
「彼は特別だ。サッカーを愛する者はみな、彼のような選手を目指した」。アルゼンチンでは、貧富の差に関係なく、子供から大人までサッカーを楽しむのが日常的な光景だ。スラム街の路地裏、だだっ広い広場、グラウンド――。ゴールがなければ急造のポストを作り、一つのボールを追いかける。「我々はサッカーという情熱を共有している」と話すベローさんは、アルゼンチンの中でもマラドーナさんを「象徴的な存在だった」とたたえる。
自らもサッカーに青春をささげたベローさんにとって、忘れられない光景がある。まだ少年だったマラドーナさんが、首都ブエノスアイレス近郊のスタジアムで行われたプロの試合のハーフタイムに登場し、披露したリフティング技術の精巧さだった。ピッチに出るとボールを蹴り始め、頭や肩も使ってリフティングを続ける姿をスタジアムで目撃した。「あの少年は何者だってみんなが驚いた」と振り返る。
国中が絶叫した伝説の5人抜き
マラドーナさんのキャリアでひときわ輝くのは、アルゼンチン代表を優勝に導いた1986年のワールドカップ(W杯)メキシコ大会だ。準々決勝のイングランド戦、ドリブルで5人を抜き、60メートル独走して決めた2点目のゴールが「今も脳裏に焼き付いている」とベローさん。
その数分前のマラドーナさんは、ヘディングに見せかけて手でボールを触り、ゲーム後に自らが「神の手」と称したゴールを決めたばかり。直後のドリブルはそのゴールを一瞬で忘れさせるほどの衝撃だった。
当時、29歳だったベローさんは、ブエノスアイレスの自宅アパートで友人5~6人と観戦していた。「イングランドゴールに突き進むと、みんな無意識に椅子から立ち上がっていた」。テレビのスクリーンにくぎ付けになり、マラドーナさんが左足でボールをゴールに流し込んだとき、ベローさんの隣人宅からもアパートの外の通りからも、割れんばかりの歓声が聞こえた。「ゴーーール!」。打楽器をたたくような音も鳴り響いていた。
この試合は、82年に起きたフォークランド紛争で戦火を交えたアルゼンチンと英国がピッチで向き合い、因縁の組み合わせといわれた。当時の心境をベローさんに尋ねると、「ほとんどの国民にとって、目標は『試合に勝つこと』だけだった。紛争と絡めた論評は後付けされたもの」と外交官らしく受け流した。
輝かしい経歴を誇りながら、マラドーナさんは91年にコカインの使用が発覚。再起を図った94年のW杯米国大会では、ドーピング違反(禁止薬物使用)で大会中に追放された。97年の引退後も健康問題に悩まされ、奇行で騒がせるなど、その生涯には影も色濃く残った。
国葬級の弔い、ひつぎはユニホームにくるまれ
それでもアルゼンチン政府は、死後のマラドーナさんを国葬並みに弔い、ひつぎは国旗と現役時代につけた背番号10のユニホームにくるまれた。この判断について、ベローさんは「サッカー以外の彼の人生は彼のもの。我々はサッカー選手としての功績をたたえたかった」と強調する。
マラドーナさんが手にした初めての国際タイトルは、日本で79年に開かれた20歳以下のワールドユース大会だった。優勝と同時にMVPに輝いた。82年には名門ボカ・ジュニアーズの一員として来日し、日本代表との3試合で計3ゴールを決めるなど、鮮烈な印象を残してきた。
11月25日に訃報が伝えられた後、多くのファンが在日大使館を訪れ、現役時代のマラドーナさんの写真や花を手向けていったという。「日本でアルゼンチンの知名度を上げた功労者でもあった」
取材時のテーブルの上には、ベローさんのネーム入りのボカ・ジュニアーズのユニホームが置かれていた。背中につけられた番号は、もちろん現役時代のマラドーナさんと同じ「エースナンバーの10番」。同世代のアルゼンチン国民にとって、永遠に脳裏に刻まれた番号といえるだろう。【中村聡也、写真も】
投稿者 荒尾保一