（ニューズウイーク） 西原なつき
アルゼンチンは昨年世界で4番目に高いインフレ率、そのパーセンテージは100％に近い状態で、今年10月の大統領選も控えながら現在深刻な経済危機に直面しています。
そんなアルゼンチン国内で、最近話題になっていたニュースがあります。
それは、「アルゼンチンに出産をしに来るロシア人女性が急増している」というもの。
今、首都ブエノスアイレスがロシア人女性のための「出産観光」の地として注目の街になっています。
出産観光とは？
観光ビザで入国している間にその地で子供を産み二重国籍を得ること、というものです。
「出生地主義」が適用される国では、その領土で生まれた者はすべて自動的にその地の国籍を取得出来るため、このようなことが起こります。この権利が適用される国の多くはアメリカ大陸に多く、アルゼンチンもそのうちのひとつです。
これまで出産観光の主な目的地は、「世界で最も憧れのパスポート」を持つアメリカ合衆国でした。BBCロシアの記事によると、ここ数十年、ロシアの富裕層や有名人は多くの財産を所有する地マイアミで子供を産み、子孫に第二の国籍を与えることは一般的であったと言います。
しかし近年、米国に入国するためのビザを取得することが難しくなってきたため、人々は他の目的地を探すようになりました。ロシア経済が不況に陥りルーブルがドルに対して半値になった2015年以降、米国に行くのは2倍の値段になったためこの傾向はより顕著になったようです。
2月初旬のアルゼンチン移民局へのインタビューでは、過去3カ月間でロシア国籍の妊婦5819人が入国し、インタビュー前夜の最終便だけでも妊娠約32週、33週、34週のロシア国籍の女性33人が乗っていたと報告されています。
ブラジルやアルゼンチン、メキシコなど他国に出産に行くロシア人女性の到着を調査・記録している、ブラジルのサンカルロス連邦大学の社会学教授であり移民専門家、スベトラーナ・ルセイシュビリ氏は、ラテンアメリカ地域でのロシア人女性の出産観光を本格的に後押ししたのは、その数字からも2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻以降であると明言しています。イギリスのガーディアン紙を筆頭とする世界のいくつかのメディアも、今年に入ってからこの現象について報じています。
ラテンアメリカ諸国の中でも、アルゼンチンがより選ばれる街となったのにはいくつか理由があります。
パスポート取得
アルゼンチンでは、故郷のパスポートに加えアルゼンチン国籍のパスポートを二重で持つことができます。
ロシア・ウクライナ戦争前、ロシア人がビザなしで入国できたのは約80カ国でしたが、アルゼンチンやブラジルのパスポートは、ビザを申請しなくても170カ国以上に入国できます。そしてその多くはウクライナ戦争に関連した制裁のため、現在ロシア人が入国できない国です。
人間らしい出産
医療費が他国よりはるかに安い（公立病院では外国人でも無料）、そしてそれらの医療の質の高さも注目されていますが、それに加えてこの国での出産について、ロシア人女性たちに何よりも「人間的な温かさ」が高く評価されているというのです。
ブエノスアイレスで出産を経験したロシア人女性のエピソードです。
「男性麻酔医が背中をとても丁寧に撫で、『もう少しで麻酔をかけますよ』と、そして笑顔で、『深呼吸して、もうすぐ赤ちゃんに会えますよ。』と言ってくれました。私はこの言葉を掛けられて涙が出ました。こんな男性医師に会ったことがなかったから、男性の医師のところに行くのはずっと避けてきたんです。
医療サービスに従事する人々のこのような態度は、ロシアでは考えられないことです。」（BBCインタビュー記事より）
ルセイシュヴィリ氏は、「ソビエト連邦後のロシアでは、病院以外の自宅での出産は禁じられており、出産前のケア、出産そのもの、産後のケアは基本的に非人間的な扱いです。ロシアで出産した女性は、絶対にロシアで子どもを産みたくはないでしょう。声を出すな、寝るな、歩くなと言われ、いいお産ができないからです。」と言います。
女性たちは、人間らしい出産を求め、出産の瞬間に自分の声を聞いてもらい、自分の意志を尊重してもらうために、ラテンアメリカにやってくるのです。
また、出産に来るロシア人女性のほとんどはスペイン語を話せないため、通訳が加わって診察や出産に来る人が多く、通訳を連れてこない・英語も話せないという場合には、「スマートフォンのアプリケーションを利用することでも、十分なコミュニケーションを取ることができる」と、ロシア人の母親たちから評判の良い私立病院の産婦人科医師は言います。
また、別の女性はこう言います。「アルゼンチンは移民にとても優しい国です。差別を受けたことは一度もありません。」
アルゼンチンに来たばかりのロシア人たちは、少しずつアルゼンチンでの生活に適応し、言語の習得に取り組んでいます。チャットアプリTelegram内のひとつのグループだけでも3700人以上が参加しアルゼンチンでの疑問や経験を共有しており、そのグループの数、興味を持つ人々の数からも今後も増え続けるだろうと言われています。
そんな中、空港で起こった事件
ロシア人妊婦の観光ビザでの入国が目立っていたとしても、移民局は義務的な規則に従って行う限り犯罪ではない、と明言していました。
しかし先月、妊娠後期6人のロシア人女性がエセイサ国際空港で「偽の観光客」であるとの非難を受け、拘留されたのです。入国管理局によると、女性たちは帰りの航空券を持っておらず、観光客としてどこへ行くかも知らなかったと言います。
この事件をきっかけに、空港や病院だけで知られていた事実が明るみに出て、アルゼンチン国民にも一般的に認知されることとなりました。
アルゼンチン移民局、空港関係者、政府などを巻き込んだこの事件、最終的には空港で拘束されていた4人の女性への人身保護令状が受理された後、政府は方針を変更。入国管理局は、アルゼンチンに到着したロシア人妊婦を空港で拘束しなくなり、現在では「定住のため」に到着したロシア人妊婦とそのパートナーたちの入国は日常的に許可されています。
犯罪的な活動
しかし、アルゼンチン政府関係者は、このロシア人出産観光ブームの背後に犯罪ネットワークがあるかどうかを調査していることも発表しました。
移民局は、アルゼンチンで生まれた子供を持つ外国人に与えられる移住制度（子供だけでなく、その両親にも国籍を取得する権利があるという制度）を利用して、アルゼンチンのパスポートを手に入れ、それを犯罪に利用する者がいるかもしれないと示唆しています。
同局は、スロベニアでアルゼンチン国籍を持つ3人のロシア人スパイを確認し、その国籍は出産による取得であったという事も報告されています。2022年には1万777人のロシア人女性が入国し、うち6401人がすでに出国しているそうです。
また特定の犯罪組織がこの出産観光に関わっている疑いで捜査を始め、その組織は、富裕層のロシア人家族から入国のために2万米ドルから3万5千米ドルの金額を受け取り、子供の誕生後に偽の文書を使って、アルゼンチンへの定住とアルゼンチン国籍取得の手続きを記録的な速さで進めたといいます。
身近な変化
住んでいる者から見て、街を歩いていての様子の変化は特にありません。移民の国なので、観光客も移住者も、様々な国籍の人たちと混ぜこぜで暮らしているのが普通です。
しかし、賃貸物件を探している人々の間でよく話題にあがるのが、物件不足とその家賃の急激な値上がりです。
元々Airbnbなど短期滞在用の物件も多い街ではありましたが、富裕層のロシア人に貸せる値段が浸透したことで、短期・長期共に外国人滞在者向け物件の家賃平均が約2倍くらいに吊り上がっているように感じられます。
そしてこれまでアルゼンチンペソで貸していた長期契約用の賃貸物件のオーナーたちが、そういった物件または売り物件に切り替えていることで、現在地元民向け賃貸物件の数は通常の2割くらいの数しかないと先日のニュースで言われていました。
ウクライナ侵攻が始まって一年が過ぎ、ロシア人妊婦たちの拠り所となっているラテンアメリカ。今後起こるであろう変化にも注目していきたいと思います。
投稿者荒尾保一
