西原なつき

前回の記事で、1976年から7年間に渡り続いたアルゼンチン最後の軍事政権について触れましたが、今回はその渦中でアーティストたちが残してきた作品について書いてみたいと思います。

この時代、アルゼンチンだけでなく南米の多くの国で軍事独裁政権が支配していました。
これは1970~80年代に展開された「コンドル作戦」によるもので、南米における親米国の独裁政権がソ連の影響力を抑えるために、組織的に行った軍事作戦と言われています。
この作戦は、ラテンアメリカから反体制派・左派勢力を根絶することを目的に遂行され、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジルなどの国が参加しました。

アルゼンチンでの強制連行による行方不明者は3万人を超えています。
対象となったのは過激な左派活動家だけではありません。新聞記者などのメディア分野、また芸術分野に関わる人々も目を付けられており、体制や資本主義に少しでも反するような内容・思想は全て検閲の対象、政府による脅迫を受けていました。
それにより芸術活動の幅は縮小せざるを得ない状況で、亡命したり、活動拠点を他国に移す人も多く出ました。
恐怖により抑圧・コントロールされていた時代です。

ロック・ナシオナルの誕生

そんな混沌とした時代に、「ロック・ナシオナル」と呼ばれる、母国語であるスペイン語で歌われるアルゼンチン・ロックが産声をあげました。
このロック・ナシオナルを形成した代表的な存在としてチャーリー・ガルシアという歌手がいます。
Sui Géneris、Serú Giránなど数々の伝説的グループのリーダーとして活動し、美しいメロディーと秀逸な比喩表現を用いた歌詞で社会に訴え続け、時代を象徴する歌を産み続けてきました。

彼が活動を始めた60年代末、クーデターが起こる前は、アルゼンチンの社会情勢は混乱を極めており、労働者や学生たちを中心とした大きな反政府暴動なども起きていました。彼らが作っていた作品は、社会への不満や不安などが歌詞に現れており、そのメッセージ性に多くの人々が共感を得ます。
この頃、ブエノスアイレスの最大級のスタジアム、ルナ・パークで行われた彼らのコンサートには、当時のロック・ナシオナルの歴史の中では最大規模と言える2万5千人を超える観客が押し寄せました。

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元々は天才ピアノ少年であった、アカデミックな素養を持つチャーリー。
彼ならではの、クラシックやジャズ、またタンゴからも、様々なエッセンスを取り込みながらの進化は続いていきました。
彼の4つ目となるグループ、Serú Giránがデビューしたのは1976年。軍事政権が始まってすぐの頃で、彼らの1stアルバムは国の状況を鑑みてブラジルで録音・制作されました。

それ以前から検閲による歌詞の削除・変更など、表現の自由は脅かされていましたが、さらに政府は彼の評判を落とすためのキャンペーンを行います。雑誌にありもしない嘘を書かせたり、人々へ不信感を持たせるような陰湿な嫌がらせを行っていました。
そのため、バンドとしての完成度は高かったにも関わらず、最初のアルバムへの世間の反応は今ひとつなものでした。

それに落ち込んだチャーリーが、それらの嫌がらせに対抗して発表したアルバムがこちら。

動画リンクの写真がジャケット写真ですが、メンバーはそれぞれ、張り詰めた顔の会社員、不十分な靴下の痩せたラグビー選手、胸に石油会社のワッペンをつけた石油売り、包丁を持った肉屋、に模しており、これらは当時のアルゼンチンの経済や社会の鍵を握る人々でありました。
そしてこのデザインは、チャーリーにとって敵であった、雑誌「Gente」の表紙をそっくりそのまま模したパロディ。
ここに書かれている「¿Ídolo o qué?」などのフレーズは、嫌がらせとしてその雑誌に掲載されたフレーズをそのまま用いており、世間はこれにより彼らのやりたいことを理解し始め、熱狂していきます。

このSerú Giránのアルバム、「La grasa de las capitales」は、当時の検閲や報道機関からの圧力に勇気を持って対応したことで、ロック・ナシオナルの歴史において最も重要な作品のひとつに数えられており、2019年にはリマスター版も発売されています。

当時の彼らのライブについて、後のインタビューでチャーリーはこう語っています。

「ライブ会場に来ている観客を警察が連行しようとしたこともあった。それでも自分たちのライブ会場が、演者も観客も含めて、唯一の社会に抗える場所だった。みんな一緒になって、そこで抑圧された感情を表現していたんだ。」

  • 近しい人々の失踪、厳しい検閲、街角には軍服の警察がいる日常。恐怖に怯える日々に一時は活動拠点を移すことも考えたチャーリーでしたが、国にとどまり作品を発表し続ける道を選びました。
    7年に渡る軍政下において3つのグループを編成、またソロとしてもとどまることなく活動し、合計で9枚のアルバムを残しています。

    そして、軍事政権終焉の時。
    1983年10月、アルフォンシン大統領の誕生により完全に民主政治が息を吹き返しました。
    数年間に渡り弾圧されていたアートの世界が、アルゼンチン音楽、特にロックやフォルクローレのアーティストたちによる、社会について言及した作品で溢れたのは当然の事でした。

    ポスト軍事政権

    1983年11月、まさにその新しい政権がスタートしてから一か月後。ソロ名義で「Clics Modernos」というアルバムが発表されます。
    このアルバムには、社会への悲痛な叫びが詰め込まれており、後にロック・ナシオナルの概念を形作った作品のひとつと評されています。
    その中に、彼の代表曲のひとつである、「Los dinosaurios(ディノサウルス)」という曲が収録されています。

    その歌詞は最初のAメロのフレーズの語尾の全てに「Desaparecer」=行方不明になる、が使われます。
    この言葉はそれまでは検閲に引っ掛かっていた単語であり、使うことができませんでした。この年には彼だけでなく数々のミュージシャンがこの単語、Desaparecerを歌詞に用いた曲を発表しています。
    そして、タイトルの「ディノサウルス」には、「軍事政権」が比喩されています。

    この曲は、前述のルナ・パークでの4夜連続公演という熱狂の中で発表されました。しかし、この時多くの人々にとってまだピンと来るものではなかったそうです。拉致、拷問、殺害の事実は闇に隠されたまま、一体政府が裏で何をやっていたか、一般の人々には知られていないことだったのです。

    (歌詞拙訳)

    「近所の友人が消えるかもしれない

    ラジオで歌う歌手が消えるかもしれない

    新聞記事を書いている人が消えるかもしれない

    あなたの愛している人が消えるかもしれない

    空にいる人が、空の中に消えるかもしれない(*)

    町の人が町に消えるかもしれない

    近所の友人が消えるかもしれない、

    でもディノサウルスはいつの日か消える」

    (*)=当時の政府により行われていた、拉致した人々を生きたまま海へ投げ捨て殺害するという「死のフライト」を指します。

    「ぼくは平常でいられない、愛する人よ

    今日は土曜日の夜、友人はCana(檻)の中

    人が消える世界

    彼ら身重な人々(政治家)は沢山の荷物を背負って生きていく

    愛する人よ、ぼくは身軽でいたい

    世界が堕ちていくとき

    何にも縛られていないほうが良いでしょう?

    想像してごらん、ディノサウルスたちがCama(寝床)についている様子を」

    この曲は現在でも、軍政時代について言及した、大事な曲のひとつとして数えられています。

    その他の代表的な曲としては、チャーリー・ガルシアと並び、ロック・ナシオナルの創始者的存在である ルイス・アルベルト・スピネッタの「Resumen Porteño」。軍政下の悲しい3つのエピソードをもとにした曲です。
    そして共産党員だったため亡命せざるを得なかった、国民的フォルクローレ歌手のメルセデス・ソーサが歌った、作曲家であり詩人のマリア・エレナ・ウォルシュの作品である「Como La Cigarra (蝉のように) 」。こちらも非常に美しい詞を持ちます。

    この曲が収録されているメルセデス・ソーサのアルバムは、軍政時代に検閲により削除され、当時のアルバムに未収録であった15曲を集めたCDです。
    発表されたのはメルセデスが亡くなった2年後の2011年、タイトルは「検閲されたもの:そして私は歌い続けた(Censurada: Y Seguí Cantando)」です。

  • 008年のRolling stone誌のインタビューでチャーリーはこのように語っています。

    「先に言っておく。こういうとファシストのように聞こえるが、それは全く違う。あの軍政が敵であったことは明確だ。しかし、あの時代の方がアートは良かった。アルゼンチンのロックは良くなる一方だった。
    今は誰もロックと言えるものを弾いていないように見える。今世の中で起こっていることとも関係なく、面白い思想も持っていない。あの頃のロックは何を言いたいかが重要だった。」

    考えさせられるコメントですが、彼らが過ごした苦しみの時代に比べたら、今この国で生きる私たちはそれほどの「叫び」が生まれない生活が送れているのでしょう。
    そこから生まれる作品がどんなものかは別として、今ここで私たちは表現の自由を奪われることなく作品を作り続けることができています。そしてそれは当たり前であるべきことであり、それが脅かされている国が存在していることに胸が痛みます。

    抑圧や苦しみの時代に生み出された音楽は、人の心に特別に響き、その背景を知るとよりその味わいは増します。
    時代の声を残し続けた、国民的ロックスター、チャーリー・ガルシア。
    ロック・ナシオナルの名曲たちを紐解いてみると、アルゼンチンの歴史が残酷なほど色鮮やかに見えてくるのです。

    著者プロフィール西原なつき

    バンドネオン奏者。”悪魔の楽器”と呼ばれるその独特の音色に、雷に打たれたような衝撃を受け22歳で楽器を始める。2年後の2014年よりブエノスアイレス在住。同市立タンゴ学校オーケストラを卒業後、タンゴショーや様々なプロジェクトでの演奏、また作編曲家としても活動する。現地でも珍しいバンドネオン弾き語りにも挑戦するなど、アルゼンチンタンゴの真髄に近づくべく、修行中。

     

    投稿者荒尾保一

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