誰が言い出したのかわからない様々な「世界三大●●」がありますが、「世界三大劇場」のうちのひとつに、アルゼンチンの劇場が名を連ねているのはご存知でしょうか。
その3つとは、フランス・パリのオペラ座、イラリア・ミラノのスカラ座、そしてアルゼンチン・ブエノスアイレスのコロン劇場(Teatro Colón)です。

2020年中に8か月に渡る厳しいロックダウンを経験したアルゼンチン。年末頃から少しずつ規制は緩和され、1~2月のバケーションシーズンを経て、観客を入れての芸術活動も少しずつながら再開しています。
この国の誇りであるコロン劇場も約一年間全ての活動は中止、その扉は聴衆へ開かれることはなくじっと時が来るのを待っていましたが、ようやくこの3月から公演が再開しました。

その2021年の幕開けは、なんとクラシック音楽ではなく、大衆音楽であるタンゴでした。
現在、バンドネオン奏者「アストル・ピアソラ」の生誕100周年を祝う「ピアソラ生誕100周年記念フェスティバル」がコロン劇場で開催されています。(この人物については、前回の投稿で詳しく書いています。)
3月5日~20日の2週間に渡りトータル14公演、日替わりでオーケストラや小編成のグループがピアソラの作品を演奏するというもの。
さらには、劇場公式サイトなどから、全ての公演がなんと無料でストリーミング配信されています。

ということで、行ってきました!

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写真:i stock/Natalia SO
IMG_8097.JPGコロン劇場内部(筆者撮影)

新型ウイルス対策もしっかりなされていました。入り口での検温、アルコール消毒、メインのエレベーターの利用は2人ずつ、乗るときもどこにも手を触れないようにと注意喚起があり、手袋をつけた係の人が全て操作するなど、かなり徹底されていた印象です。
現在ブエノスアイレス市でコンサートやお芝居などをする際は、客席数を30%まで絞るようにとの規制がありますが、このフェスティバルではそれよりも少なく、各公演450人で満席と設定されていました。(客席は最大収容人数約2500人。)

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(これで開演5分前の”満席”の様子です。チケットは完全予約制、3~6席ずつ間隔をあけるように座席指定された上、空席に座らないようにテープが張ってあります。)

行ってきたのは私の母校であるタンゴ学校、「オルケスタ・エスクエラ・デ・タンゴ・エミリオ・バルカルセ」の公演。
アルゼンチンの各都市をはじめ世界中からもタンゴを学びたい演奏家たちがオーディションを受けにくる、若手タンゴ演奏家の登竜門的な、ユースオーケストラのような市立の教育機関です。
2年おきにオーディション・卒業があり生徒が入れ替わるシステムのこの学校も、コロナ禍で全ての活動が中止され、現在の15期生たちは学びの機会を大きく失いました。(オンラインで授業などもしていたようですが、やはり集まって並んで演奏する、肌で感じる学びが大きいのです。)

この日はピアソラが音楽家としてのキャリアをスタートした頃の、大きなタンゴオーケストラ用に書かれた作品を中心に演奏されました。公演のタイトルは「ピアソラになる前のピアソラ (Piazzolla antes de Piazzolla) 」。
一般的によく知られる「リベルタンゴ」などのイメージのピアソラとは違う、しかしタンゴ演奏家やタンゴファンたちにとってはむしろ大好物、とも言える作品たちが演奏されました。

そしてこの公演に参加した5人のスペシャルゲストたちは、そのうち4人が70歳を超える巨匠たち。
マスクをつけて登場し、ステージから見る客席は空席だらけと言える状況であっても、私たち観客のために全力でパフォーマンスする様子は涙なしには見ることができませんでした。
タンゴ演奏家たちは80歳を超えても現役バリバリで演奏する人も少なくありません。この日のゲスト・女性歌手のスサーナ・リナルディは85歳。介添されながらステージに上がるも、歌い始めれば年齢なんて感じさせないパワフルさで、3曲歌い通し観客を魅了しました。

またこの楽団の音楽監督でありバンドネオン奏者の、ビクトル・ラバジェンも同じく85歳。学生たちよりも気持ちは若いのでは!?と思うこともあるほどアクティブで、この日もオーケストラの指揮に加え自身のグループ(トリオ)を率いて2曲を披露。
そして最後には、ピアソラの名作「アディオス・ノニーノ」がトリオ+オーケストラの全員で演奏されました。ピアノのソロから始まり、バンドネオン8重奏によるカデンツァの前奏を含むオーケストラ編曲。
この日のこの公演だけのために時間をかけて作り上げられた編曲と演奏に、会場はスタンディング・オベーション。満席での拍手喝采・・・とはいかなくても、強く、鳴りやむことのない拍手が送られました。
2時間たっぷり休憩なしの、濃密なプログラムでした。

(この日のストリーミングアーカイブより、「Adios Nonino」。私はこの曲で色々な思いが溢れてきてこらえきれず大号泣、マスクの存在にこれほど感謝した日はありません・・・。)
  • コロン劇場の歴史は1857年に始まり、今の場所に設立されたのが1908年のことです。
    伝統あるオペラハウスでタンゴ?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実はコロン劇場とタンゴの歴史は劇場創立当時のものからなのです。

    カーニバルのフィナーレはコロン劇場にて。
    夜11時、50人のバンド演奏と。入場料は男性5ペソ、女性は無料。

    これは1910年に、アルゼンチンを代表する新聞のLa Nación紙に掲載された、ダンスカーニバル最終日についての告知内容です。
    そのカーニバルではタンゴだけでなく、ポルカやマズルカと言った様々なダンスが踊られたと言います。

    しかし同時に、同じ新聞に「タンゴはコロン劇場にはふさわしくない」という内容の批判も書かれました。
    というのも、タンゴは元々、労働者たちが集っていた酒場や売春宿から生まれたもので、中流階級以上の人々にとっては良いイメージでは捉えられていなかったのです。
    しばらくして町の人々にも少しずつタンゴの文化的な面が受け入れられるようになり、その人気は広がりを見せていきます。
    「その音色は、町の中の小さな通りで慎ましく生活する人々を笑顔にさせるだけでなく、この町の奥底に眠るメランコリー、深い悲しみや人生の苦みに寄り添うものである」
    とは、この当時の有名な作家がタンゴについて語った言葉です。
    そうして、街角やカフェなどで演奏されていたタンゴですが、素晴らしいグループへ向けて、観客は「¡Al Colón! ¡Al Colón!(コロンへ!コロンへ!)」という声で囃すようになったといいます。

    批判の声がありながらも、タンゴ独自の公演にこぎつけた最初のものが1928年。「グラン・アート・フェスティバル」と呼ばれる企画の一環で、格式高い舞台の上でオーケストラ、歌手そして踊り手たちがタンゴのパフォーマンスを行いました。

    しかし、タンゴをコロン劇場で聴くことが一般化することはありませんでした。ピアソラが自身のグループでコロン劇場で初めて演奏したのが1972年、”ブエノスアイレスの音楽”と題された、様々なグループが参加する1つのコンサートの中の一枠としての出演。
    ここまでの約半世紀の間でも、指折りで数えられるくらいの数しかタンゴの公演はありません。

    (1972年、ピアソラが初めてコロンのステージに立ったときの映像です)

    伝統あるオペラハウスで大衆音楽の公演をするべきかという問題は別だとしても、クラシック音楽とポピュラー音楽のヒエラルキーは、様々な音楽のジャンルで見えてくるかと思います。
    「ラプソディー・イン・ブルー」(1924年発表)でジャズとクラシック音楽の融合を成功させたことで知られるガーシュインも、最初はオーケストラの曲を書いても、「ティン・パン・アレー(大衆音楽、商業音楽を象徴するニューヨークの一角)上がりだろう」と軽視され落ち込んだというエピソードも残っています。
    ピアソラは幼少期にニューヨークで、まさにこのガーシュインの演奏を近所の店で日常的に聴いており、そのジャンルをクロスオーバーさせ作品発表をしていた姿に大きく影響を受けていました。

    そうして実際にピアソラが、このコロン劇場でのリサイタル公演を叶えたのが1983年、71歳で亡くなる約10年前のことです。

    現在のコロン劇場でのタンゴのコンサートはというと、やはり多くはありません。
    今回のような何か大きな記念行事があったり特別企画が組まれる際、頻度としては1,2年に一度、といったところでしょう。
    それが今、この劇場で2週間に渡り14公演、アストル・ピアソラのタンゴが、現代のタンゴ演奏家によって再演・または新たなアレンジで演奏されているのです。
    毎日、彼らがこのステージで魅せる素晴らしい演奏、そしてそこから垣間見えるタンゴ演奏家としてのプライドは、このコロナ禍も相まって毎日胸が熱くなります。これはタンゴ史の中でも大きく歴史に残るイベントに違いありません。

    時差12時間のアルゼンチン。日本からは、殆どの公演が朝8時から、公式サイト(メニュー→”En vivo”で配信ページ)や、劇場の公式Youtubeチャンネルより無料で視聴することができます。またアーカイブも全て残っています。ぜひ覗いてみてくださいね。

    ピアソラも空の上からきっと、したり顔で、喜んでいるに違いありません。

     著者プロフィール西原なつき

    バンドネオン奏者。”悪魔の楽器”と呼ばれるその独特の音色に、雷に打たれたような衝撃を受け22歳で楽器を始める。2年後の2014年よりブエノスアイレス在住。同市立タンゴ学校オーケストラを卒業後、タンゴショーや様々なプロジェクトでの演奏、また作編曲家としても活動する。現地でも珍しいバンドネオン弾き語りにも挑戦するなど、アルゼンチンタンゴの真髄に近づくべく、修行中。

    Webサイト:Mi bandoneon y yo

    Instagram :@natsuki_nishihara

    Twitter:@bandoneon

    投稿者 荒尾保一

(注) 著者 西原なつきさんは、当協会飯塚理事のお知合いです